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3月, 2020の投稿を表示しています

今を生きるために必要なこと

コロナウィルスがまんえんしようと、学校が休校になろうと、 僕たちの生活は楽しい、そのように感じることができる今です。 先週、僕はじっとパソコンの数字にかじりついて、 それに対してたいくつしている息子に、 「ごめんね、今、お父さんは時代を見ている、あとで説明するからね。」 と言っていました。日本だけでなく、世界が元気を失い、 僕自身、生まれて初めて見る数字に、とても踊らされました。 それに対して、息子は、 「コロナウィルスってペストみたいなもんだね。  だから、野口英世ってえらいんだね。」 と言ってきました。 その言葉に、とても勇気づけられました。 というよりむしろ、その言葉は、彼に寄り添う僕たちに 確かに未来があることの証拠だと感じました。 子どものリスクを支えるのは、僕たちの仕事だと思っていたのに、 彼がニュースを直視して、今をまさに読んでいます。 人々の不安という直観に、あえて7歳の彼は、 それを学びとして、記憶しています。 最近僕たち夫婦は、ある共通点を見出しました。 それは、二人とも、まともに塾に通ったことがない、というものです。 確かにそれが、時にネガティブに会話を誘導することもあります。 これから彼を塾に通わせることができないんじゃないか、とも話します。 それでも、彼が「今を感じる」という力は、 僕たちがおぎなえない素直さを愚直に感じさせます。 今を感じるには、パターンとして見る力ではおぎなえないからです。 僕は、今日のリスクに対して、楽観的にみています。 そのリスクをおぎなうために、日本企業は、内部留保を続けてきました。 就業する人たちには、これだけ株価が上がっているのに、 給与が上がらない現実に辟易している人もいると思います。 しかし、日本は、世界の市場において、特異な動きを見せています。 それは、東日本大震災を経ているからです。 リスクをいつかは負う時が来ると身構えていたからこそ、 日本は今、致命的な状況ではないと断定できます。 今は、何でもない日常が美しいように僕は思います。 しかし、今を生きる子どもが、 将来日本を変えていき、になうと、 信じることができる、 少

広瀬麻梨奈さんと出会った日

2011年3月11日から、9年が過ぎた。 今日の14時46分は、学校が休みの彼と、 車のオイル交換で訪れていたディーラーで迎えた。 テレビで追悼行事がやっていたので、心から黙とうした。 そのかん、9年前を考えたが、悔やんでも悔やみきれない思いより、 広瀬さんと出会ったことがなにより嬉しいことのように思える今がある。 お台場。 撮影が終わり、新入社員だった広瀬さんは、 スーツ姿で馬鹿みたいに重たいごみを上司に言われて 捨てに行っていたところだった。 新入社員は大変だなぁと思ったので、 「広瀬さん、僕がそのごみ捨てとくから。」 といって、とっとと捨てて、東京テレポートのキオスクで買った スーパードライを飲みながら、電車を待っていた。 そこに、いきなり広瀬さんが 「本多さん!」と声をかけてきた。 「さっきはゴミ出しありがとうございました。」 私服姿の彼女は、新卒で、大きなリングのピアス、 茶色のジャケット、ローライズジーンズ。 「ごめんね、俺撮影終わったあとたまにこれ飲んじゃうのよ。」 と断ったら、「逆に私も飲みたいです笑」と言ってきた。 電車に乗って、目黒に住んでいることを知って、 僕と同じ路線なんだね、じゃあ今度飲みにでも行こうか、 と、一応言っておいた。 その何週間か後、ご飯に行って、彼女が目黒が実家で、 銀行家の家で育ったことを知った。 僕は、当時品川でホテル暮らし。 おそらく8月には東京を去るだろうと考えていたので、 今しかできない暮らし方をした。 結婚は、女性との付き合いの延長に、家同士の関係ができる。 彼女とは、身分も違う。 実際僕は、8月初旬に、品川駅から博多行の新幹線に乗った。 彼女にも、東京の仲間にも、そして、東京にも、もう戻らないと思った。 僕は、塩気を失った塩なのだと思った。 それから半月。彼女が博多駅にやってきた。 僕に会うためだけに。 信じられないと思った。 '博多駅についたよ。’ 博多駅に初めて来たという彼女は、 博多口ではなく、筑紫口の模様が付いた煉瓦の前で待っていた。 僕は、すぐに東京に戻る決意をした。 そして、品川区に彼女と住むための家を借りた。 そ