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その男、元テレビマンにつき・・

僕は2012年に知名度の低い佐賀という地元に東京出身の妻を連れて帰ってきて、僕はNHKに就職。フォトグラファーからディレクターに。なぜこの世界に入ってしまったか、自分でも浅はかだったと思います。笑 そもそも僕は大学を二浪二留したので、雇ってくれるところはNHKくらいしかないだろうと大学5年の時に思ったのでした。それで野村證券によく受かったと思いませんか??笑 NHKは公共放送、公共放送では、例えばカフェを取材し番組にし撮影したとしても基本的に「看板を映してはならぬ」という法律のようなものがあります。記者が作るニュースとは違って、例えば「新宿駅」とかはうつして放送していいんですが、個人が掲げているものはうつすの禁止でした。 しかし視聴者は看板がうつらなくてもどこかわかってしまう。 そうすると、僕がさっき例えばで使ったカフェは、なんと半年から1年くらいはお客さんが増えます。これが全国放送で、例えば「佐賀県小城市のようかんは世界一!」なんて放送されたら、小城市役所は放送日はすさまじい対応で追われる。 テレビはインターネットが使えない世代のちょ~がつくほどのインフルエンサーそのもの。NHKともなると、なんというかお墨付き、のようになります。 (ちなみに野村に転職したのは実はこの点からすると逆に、僕は世の名もなき商店を営む人、つまり、ディレクターが取り上げるわけない、とても目立たないもはや風景と同化した、素晴らしい人たちと、証券の営業というていで話し接して、少しでもその商いに誇りを感じてもらいたかった。。これ野村の面接で言いました。) ツイッターやインスタしかり、インフルエンサーとは、やはり誰かがそれを認めて褒める必要がある、こんな時代にも、いまだにマスメディアとしてテレビが重宝されるのは、テレビ番組を作り上げている裏方(ディレクター、プロデューサー)の、例えば単なる好みだったりする。それがすごい勢いで、波及する現場を僕はみてきました。 僕にとって残念、そして意外だったのは、一度裏方になってしまうと、一生僕はNHKなどに取り上げられないという事実です。このコンプライアンス強化の時代、元NHKが世に出るとそれこそ仮にですが僕を取り上げるかもしれないディレクターと僕がずぶずぶの関係なんじゃないか、と会社は勘ぐるそうです。 要するに僕は一生裏方で生きていく、なんかデジタルタトゥーみ
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いろんな経験をしたフォトグラファーとして、改めて皆さまに自己紹介

僕は運よく東京で年間130組のウェディングを撮影し、東京や川崎、横浜の有名私立や教育に力を入れている学校の撮影をし、またその逆しかり、荒れている学校も担当しました。撮影がない日は、横浜のふ頭でコンテナの荷物をさばいたり、丸の内界隈などたくさんの大手企業の配置換えなどを多くしました。 引っ越し作業では当時六本木ヒルズに入居していたライブドアホールディングスを担当したこともあります。ウェディングでは新郎新婦を撮影する中で当然所属先の株価なども考慮に入れ会話をする必要があり、当時日経を毎日仕事のために読んでいました。僕の知識は一朝一夕のものでは実はないです。 学校写真でも正直かなりの有名私立を担当していました。ある時、僕は撮影したことのない青山学院初等部の皆さんと水族館で一緒になったことがあって、青学初等部の保護者の意識の高さに面食らったこともあります。自分も所属は一応青山学院で、僕がその時担当していた子どもたちも全身ラルフローレンとか着ているのに。。笑 いま、まさにアマゾンがやっているミクロ経済学を用いた情報戦、すなわちアマゾンでは物流において、どのような商品を顧客の属性を見ながらアルゴリズムを働かせてみるビジネスモデルを、僕は小規模ながらやっていたような気がします。 事の結末は2014年に野村證券で終わりました。入社すると朝8時には会社に着いて、日経の読み合わせやロンドンとニューヨークの市場の動きをブルームバーグで、もう誰かがレポートでまとめている記事を読みます。それをもってお客さんの話を聞いていたら、だんだん売る自信がなくなりました。僕は入社してすぐ日銀がやっている量的緩和策の意味が分からなくなってしまいました。この点はジム・ロジャースと言っていることが同じです笑 そのくせいくらでも売ることができるから嫌でした。いつも一回で1000万円を売ろうという自分の魂胆も悪かったなぁ、と思います。 ということで今は写真の激安カメラマンと息子の無料家庭教師、つい先日まで妻の転職の無料コーチングをしました。コロナ前に入っていたスポーツジムではまんまと野村出身なのがばれてサウナでものすごく親身に意見したり、ファイナンシャルアドバイザーだからと先日は友人のローン完済に向けて意見したりと、もうフリーライドされすぎです笑 皆さんが儲かって幸せになればとの思いです! この話は次回にしたいと

妻と息子の現況と宮台真司さんについて

皆さんこんにちは。 ここ九州も寒くなってきて ダウンが必要になってきました。 ぜひ皆さまにおかれては体調を一番に 暖かくお過ごしください。 さて、今回は昨今の私たちの近況をと思い 長文になると思ったので ブログを使っています。 今日は妻と息子の近況、それも リアルな現況が伝われば うれしいなと思っています。 「妻の近況について。」 過去何度もアナウンスしてきたのは 要は私たちがいつアクションを起こすのか であり 私たちは過去 残念ながら 何もアクションを起こすことができなかった 事実があるのみです。 この事実には学びが必要でした。 僕たちの経験から言えるのは SPIができないと 就職活動は厳しいということです。 蛇足ですが、 実は僕自身が人生の中で SPIの勉強をすることなく 一部上場の会社などに入ったものですから SPIが妻のキャリアにこれほど必要なのに 気付かなかった自分の経験値の低さを 思い知らされています。 しかし、 そうこうしているうちに 妻の職務経歴は NHKは4年目に入り 年齢もまだ34歳、さらに子は小学4年生 さらに三井住友海上での経験も買われて 満を持しているように見えます。 すでに、10月には大手某社との一次面接は成功し 現在SPIの勉強に日々追われています。 SPI、つまり、 妻がSPIを受けているということは 大手を中心にということです。 まだ結果が出ていませんので 具体的なことは何もいえませんが 皆さんにサプライズを起こせる日が来るのを 僕も含め期待しています。 「息子(小学4年生について。」 言えることは 彼自身が自分のキャリア について話すようになった、 というよりも 佐賀県佐賀市久保田町は 天国ではないと気づき始めています。 僕の母校でもある久保田町の 小学校に入れた理由を述べると 実は先日大学のキャンパスで 刺された宮台真司さんの著書が 影響しています。 宮台さんは幼少を京都で過ごされ いわゆる公立小学校の出身です。 逸話では京都では いわゆるやくざさんのお子さんも クラスメートにはいらっしゃって そういう中で誰もが平等に 考え感じ助け合う姿を学ばれたそうです。 久保田町の小学校は 幸運にも 僕の経験上知っていたのは あらけずりで這い上がる 気合が必要な学校だということでした。 息子はリアルに 宮台真司さんの世界にいると言えます。

セカイのミライのために

前回ブログを書いたのが2020年、 その時の文章を振り返って、この2年間で、 僕がどれほど変化したか、痛感させられます。 文章を残すことって大事ですね。 2022年の春、僕はたんたんと 物理学のべき乗測という概念を勉強しています。 毎日、主夫のルーティンとして アイロンがけ、日経の精読それぞれの分野に転送など、 昼食を軽めにとって、今は物理学を使って 新商品の開発をしています。 夕方から軽く料理をしたあと、 モップがけ、食器の片づけ、トイレ掃除をしています。 明日から息子が春休み、来年4年生になります。 長かったなぁと思います。 なぜなら1年生になった最初 「あ」 という文字を書かせることから始まり、 「あ」 を覚えさせるってどういうこと?って とまどいました。 コロナの影響でだいぶん仕事は落ち着いたこと、 仕事は選ばなければいくらでもあるんですが、 妻に「好きにやっていいよ」と言われていて、 好きなことをやっています。 むしろ、「好きなこと」というのは、 今までできなかったことなので、 好きなことができることというのは、 すごいことです。つまり、すべてが新しいです。 その中で、 これまでのようにただただ営業をするのではなくって、 僕は 「リスクのある商品は絶対に売らない」 という強い決心が生まれたので、 それに見合った商品開発や考察が必要でした。 それを踏まえて、 といっても自分で考えたことなんですが、 じっくり腰をすえて未来に時間もお金も投資しています。 こんな時代なのに、とても未来は明るいです。 今、なぜ物理学を勉強しているのかというと、 新商品の開発もそうですが、 ウクライナ情勢の影響もあります。 地震などの災害、株価の急落、戦争などには ある共通した数式で表すことができる、 そんなことを勉強して、 将来誰かに教えられるようにしています。 最近ツイッターもインスタもなんでも継続してやれていて、 この勢いでブログもやれればと思っています。 撮影が本職ですが、今は 「明るいミライをつくる人」 っていう肩書になれたらな、と思ってます。

医師と祈り~吉原麻里さんについて~

皆さんこんにちは。元気にしてますか? 今日は、ブログを急遽作りました。どうぞご覧ください。 な ぜだろうか、僕に降りかかってくるタスクは、昔ながらの根性論を知らない現代の人だったら投げ出してしまうものが多い。写真も、かじったくらいのレベルなのに泣。 さて、過去、ある職種の人が担当になると、あえていうが、どう撮っていいのかわからないとてつもない緊張を感じていた。それは一言に尽きる。「医師」である。 どういう因果か、僕は昨今、医師、吉原麻里さんの撮影を3年間もしている。僕の親友が紹介してくれたまではよかったが、佐賀きっての有名人ともつゆ知らず。 医師という職業に対して、これまでどういう共通項があったのか、それは、知らない人から写真を撮られるのがめっぽう苦手ということだ笑 なぜか、恥ずかしがりやなのだ。 ただただ、この吉原麻里さんは、とにかく現代の、ミレニアム世代の医師といった感がある。例えば、撮られるのが好きだし、高圧的なものもない。彼女のFacebookを見ると、たくさんの友人に囲まれ、きめ細やかにコメントをし、思ったことを素直に表現している。裏を返せば、人一倍努力家であり、バランスのいい自己肯定感を持ち合わせている。 さ て、なぜ今、吉原さんについて、書こうと思ったのか。実は、前に吉原さんを取材したときの言葉、行動を、僕自身が実践している報告をしたいと常々思っていたからだ。特に、コロナ不安がある中で強調したかった。 それは、寝る前に友人のことを思うという吉原さんの習慣についてだ。 実は、吉原さんの考え方が、ハーバードで実証されていると、とある講演会で知った。こういう内容だ。 『一つのグループには、 「あなたの病気が早く治りますように、と毎日祈っています。」 と本人に伝える。 もう一つのグループには、何も伝えない。 すると、最初のグループは、重い病気の治りがはやくなったという。 さらに言えば、 祈っていると伝えなくてもいい、ただ一方的に祈るだけで、 祈られている人に効果が表れるという驚くべきものだった。』 とても驚いた。いつも気さくななだけでなく、吉原さんが医師としての姿を貫いていると感じることができた。この内容は彼女が話したことと相違ないことだった。 一方、僕は医師などなれるわけもな

今を生きるために必要なこと

コロナウィルスがまんえんしようと、学校が休校になろうと、 僕たちの生活は楽しい、そのように感じることができる今です。 先週、僕はじっとパソコンの数字にかじりついて、 それに対してたいくつしている息子に、 「ごめんね、今、お父さんは時代を見ている、あとで説明するからね。」 と言っていました。日本だけでなく、世界が元気を失い、 僕自身、生まれて初めて見る数字に、とても踊らされました。 それに対して、息子は、 「コロナウィルスってペストみたいなもんだね。  だから、野口英世ってえらいんだね。」 と言ってきました。 その言葉に、とても勇気づけられました。 というよりむしろ、その言葉は、彼に寄り添う僕たちに 確かに未来があることの証拠だと感じました。 子どものリスクを支えるのは、僕たちの仕事だと思っていたのに、 彼がニュースを直視して、今をまさに読んでいます。 人々の不安という直観に、あえて7歳の彼は、 それを学びとして、記憶しています。 最近僕たち夫婦は、ある共通点を見出しました。 それは、二人とも、まともに塾に通ったことがない、というものです。 確かにそれが、時にネガティブに会話を誘導することもあります。 これから彼を塾に通わせることができないんじゃないか、とも話します。 それでも、彼が「今を感じる」という力は、 僕たちがおぎなえない素直さを愚直に感じさせます。 今を感じるには、パターンとして見る力ではおぎなえないからです。 僕は、今日のリスクに対して、楽観的にみています。 そのリスクをおぎなうために、日本企業は、内部留保を続けてきました。 就業する人たちには、これだけ株価が上がっているのに、 給与が上がらない現実に辟易している人もいると思います。 しかし、日本は、世界の市場において、特異な動きを見せています。 それは、東日本大震災を経ているからです。 リスクをいつかは負う時が来ると身構えていたからこそ、 日本は今、致命的な状況ではないと断定できます。 今は、何でもない日常が美しいように僕は思います。 しかし、今を生きる子どもが、 将来日本を変えていき、になうと、 信じることができる、 少

広瀬麻梨奈さんと出会った日

2011年3月11日から、9年が過ぎた。 今日の14時46分は、学校が休みの彼と、 車のオイル交換で訪れていたディーラーで迎えた。 テレビで追悼行事がやっていたので、心から黙とうした。 そのかん、9年前を考えたが、悔やんでも悔やみきれない思いより、 広瀬さんと出会ったことがなにより嬉しいことのように思える今がある。 お台場。 撮影が終わり、新入社員だった広瀬さんは、 スーツ姿で馬鹿みたいに重たいごみを上司に言われて 捨てに行っていたところだった。 新入社員は大変だなぁと思ったので、 「広瀬さん、僕がそのごみ捨てとくから。」 といって、とっとと捨てて、東京テレポートのキオスクで買った スーパードライを飲みながら、電車を待っていた。 そこに、いきなり広瀬さんが 「本多さん!」と声をかけてきた。 「さっきはゴミ出しありがとうございました。」 私服姿の彼女は、新卒で、大きなリングのピアス、 茶色のジャケット、ローライズジーンズ。 「ごめんね、俺撮影終わったあとたまにこれ飲んじゃうのよ。」 と断ったら、「逆に私も飲みたいです笑」と言ってきた。 電車に乗って、目黒に住んでいることを知って、 僕と同じ路線なんだね、じゃあ今度飲みにでも行こうか、 と、一応言っておいた。 その何週間か後、ご飯に行って、彼女が目黒が実家で、 銀行家の家で育ったことを知った。 僕は、当時品川でホテル暮らし。 おそらく8月には東京を去るだろうと考えていたので、 今しかできない暮らし方をした。 結婚は、女性との付き合いの延長に、家同士の関係ができる。 彼女とは、身分も違う。 実際僕は、8月初旬に、品川駅から博多行の新幹線に乗った。 彼女にも、東京の仲間にも、そして、東京にも、もう戻らないと思った。 僕は、塩気を失った塩なのだと思った。 それから半月。彼女が博多駅にやってきた。 僕に会うためだけに。 信じられないと思った。 '博多駅についたよ。’ 博多駅に初めて来たという彼女は、 博多口ではなく、筑紫口の模様が付いた煉瓦の前で待っていた。 僕は、すぐに東京に戻る決意をした。 そして、品川区に彼女と住むための家を借りた。 そ